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: 計算機実験のアイデア : 計算機物理学の背景 : 摂動論

摂動論の破綻

摂動論は これまでに様々な問題に適用されて,非常に多くの成果が得られているが, しかし,すべての問題が摂動論で解明され得るかというと, 残念ながらそうではない点に注意しなければならない。

摂動論が適用できて,良い結果を与えるのは, 摂動の強さを表す結合定数の値が小さい, 「弱結合系」と呼ばれている体系のモデルにたいしてである。 一方,考えている体系のモデルの結合定数が小さくない場合には, 無理に摂動計算を行っても良い結果は得られない。 結合定数が大きく摂動論が適用できない体系は「強結合系」と呼ばれている。 弱結合系の性質は摂動論により既に殆どが調べられているのにたいして, 強結合系の問題はその解明の困難さから未解明の問題として残されているものが多い。 つまり, 現在物理学で問題となっているものの大部分は強結合系であり, 摂動論というほぼ確立された方法は, そのような興味ある問題には残念ながら単純には適用できないのである。

弱結合系であっても単純な摂動論が適用できない場合がある, という点にも注意すべきである。 ここでの議論に関連する物理学史の上の最も重要な出来事は, 「超伝導」現象の発見とその解明の過程であるので,少し詳しく説明しよう。

超伝導現象というのは, 鉛などの金属の温度を低くしていくとある「臨界温度」で電気抵抗が突然に, しかも完全に消失するという現象で, 1911年にオランダのカメリン$\cdot$オンネスにより発見された。 超伝導現象というのは,通常は原子,分子といったミクロな世界で現れる 量子論的な効果がマクロなスケールで現れたものと理解されている。 金属の超伝導現象の理論的解明は1957年に バーディーン - クーパー - シュリーファー(BCS)の3人によってなされたが, 現象の発見から解明までに,実に半世紀近くを要しことは注目に値する。 通常の金属の性質は, 金属中で電気伝導を担う多数の伝導電子が互いに相互作用をしないで 自由に動きまわるという自由電子モデルによりかなりよく説明できる。 BCS理論は,金属中の伝導電子間に,格子振動を媒介とした「弱い」引力相互作用が 働くことを前提としていて, $g \ll 1$ ,すなわち弱結合系の理論である。 この理論によって それまでに知られていた金属の超伝導に関する殆どすべての実験事実を, 半ば定量的に説明することができるようになり 4, 彼らは 1972 年のノーベル物理学賞に輝いたのである。 BCS理論によれば電気抵抗が消失する温度, すなわち臨界温度 $T_c$

\begin{displaymath}
T_c = 1.14\, \theta_0\, {\rm e}^{-1/g}
\end{displaymath} (2)

と与えられ, ここに,$\theta_0$ は物質に固有なパラメータ, $g$ は格子振動を媒介とした伝導電子間の相互作用の大きさを表す結合定数である。 ところで,([*])式の右辺は, $g \rightarrow 0$ とすると指数関数の引数が発散してしまうので, たとえ $g$ がどんなに小さくとも $T_c$ が ([*]) 式のような $g$ のべき展開の形で近似することができない ことを表してる点に注目していただきたい。 量子力学が完成した頃(1926$\sim$)には, 摂動論による方法は方法論としてほぼ確立していて, 量子力学はその後,多くの場合摂動論を用いて, 様々な問題に適用され大成功をおさめていたのであるが, BCS理論の結果は, 結合定数 $g$ がどんなに小さくても, 超伝導状態を摂動論で取り扱うことができないことを意味し, このことが超伝導現象の理論的解明を遅らせたといえる。 また, 摂動論では決して解明できない現象が自然界に存在するということが 認識された意義は非常に大きい。



tamari@spdg1.sci.shizuoka.ac.jp 平成14年2月12日